私はむしろ「有権者のダッチロール」が問題であると思う。
これはきわめて興味深い心理学上のトラップである。
「私の言うことを聴け」と命じておいて、その指示に従うと「なぜ私の言うことに唯々諾々と従うのだ。お前には自我というものがないのか」と難詰し、それではというので命令を聞かないと「なぜ私の言うことに従わない」といって難詰する。
これはご存じ「ダブル・バインド」である。
親の指示に従わないと罰せられ、従っても罰せられるという「出口のない」状況に長く置かれると、子どもはメッセージの解読に困難を来すようになり、やがて精神分裂病を発症する、というのがグレゴリー・ベイトソンの「ダブルバインド」仮説であった。
他人をダブルバインド状況に追い込むのは、別に特殊な話ではない。
親が子に、教師が生徒に、上司が部下に、先輩が後輩に、監督が選手に・・・あらゆる場面でダブルバインドは「活用」されている。
例えば、「どうして、こんな失敗をしたんだ」という問いには回答することが心理的にはむずかしい。
「これこれこういう理由で失敗しました」と答えれば、「なぜ、それがわかっていながら失敗した」とさらなる叱責を受けるし、「わかりません」と答えれば「じゃあ、お前はこの失敗から何も学んでおらず、この先も同じ失敗を続けるつもりなんだな」とさらなる叱責を受けるからである。
どう答えても状況がさらに悪化することが確実であるとき、私たちは黙り込んで「嵐が過ぎるのを待つ」。
この「黙り込んで嵐が過ぎるのを待つ」ことしかできないマインドを構築するのがダブルバインドの狙いである。
その意味で、ダブルバインドはきわめて政治的な仕掛けなのである。
それは仕掛ける方を「主人」に、仕掛けられる方を「奴隷」に、政治的に非対称な関係に固定化するための装置である。
それが子どもであれ、老人であれ、病人であれ、どれほど現実的に非力な人間であっても、ダブルバインドを仕掛けられると、どのような世俗的強者も、一時的に「フリーズ」してしまう。
だから、自分を相対的弱者であると感じている人間、あるいは今以上に大きな敬意や愛情を向けられて然るべきだと感じている人間は、しばしば無意識的にダブルバインドを仕掛ける。
私の眼には、今般の参院選の有権者たちは、全体として「ダブルバインドを仕掛ける側」としてふるまっているように見える。
鳩山前政権の支持率をあそこまで下げておいて、鳩山前政権の「居抜き内閣」には法外な支持率を与え、世論調査では消費税率アップに賛成しておいて、消費税率について踏み込んだ政策提言をしたとたんに「消費税導入反対」に切り替え、有権者の意向に配慮しないと不満を言い、有権者に媚びるとは政治家としての矜恃がないと非をならす。
これはダブルバインド・セッティング以外の何ものでもない。
そう考えると、日本の有権者が何をしようとしているのかを伺い知ることができる。
彼らは政治過程を「フリーズ」させようとしようとしているのである。
政治家たちを「黙って嵐が過ぎるのを待つ」ようなマインドセットに追い込むことを目指しているのである。
もちろん、個々の有権者に訊ねてみれば違うことを答えるだろう。
けれども、総意としては「政治過程のフリーズ」を求めているのである。
衆院与党が3分の2に達しない「真性ねじれ国会」とは、多くの識者が指摘するとおり、「何も決まらない国会」である。
ダブルバインドの呪縛にかかった国会である。
大勝した自民党は、国会で攻勢に出て、対米外交や税制改革で民主党に大幅な譲歩を求めるかもしれない。
でも、そのときに、たぶん自民党支持率は一気に下がるだろう。
自民党の政治家たちは、「いったい、有権者は私たちに何をしてほしいのか?」と困惑して自問することだろう。
政治家たちがどうしていいかわからないで立ち尽くすこと。
それが、今回の選挙で国民が総意として選んだ政治の姿なのである。
一昨年、アメリカではオバマ大統領が「Change」を呼号して歴史的勝利を収めた。
けれども、オバマ大統領の「変革プログラム」に対してアメリカの有権者は頑強な抵抗を示した。
「変える」と訴えて選ばれた大統領が実際にシステムを変えようとすると「変えるな」という激烈な抵抗が噴き上がってくる。
オバマ大統領はなすことなく、立ち尽くしている。
「国民はいったい何を望んでいるのか?」という問いを政策レベルで論じてもたぶん意味がない。
「『国民はいったい何を望んでいるのか?』という問いを政策レベルで論じてもたぶん意味がない」ような事態を出来させることを通じて、国民はいったい何をめざしているのか、と問う方がたぶん合理的である。
なぜ日本に限らず、先進国の有権者たちは「政治過程が凍結すること」を望むようになるのか。
これは十分に生産的な問いになりうると私は思う。
Source: blog.tatsuru.com